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日本在来馬って知ってる?日本在来馬と競馬の関わりについて

世界に通用する日本の競走馬が多数登場し、地方競馬は売上レコードを続々と更新、中央競馬も売上好調と、ますますの盛り上がりを見せている日本の競馬界。

現在の競馬で活躍する競走馬は、18世紀初頭にイギリスで品種改良された「サラブレッド」という品種で占められていますが、古くは日本古来の在来馬で競馬が行われていた時代もあったと言われています。



日本在来馬とは?

日本在来馬とは、海外からの外来の馬との交配をすることなく日本で守られてきた血を持つ、日本古来の馬のことを呼びます。

速く走るために生み出されたサラブレッドは、色々な血を混ぜるために、様々な血統を持つ世界中の馬と交配を行いますが、日本在来馬は国内だけで脈々と受け継がれてきたのです。

 

日本在来馬の種類ですが、宮崎県都井岬産の御崎馬、北海道産の道産子、長野県木曽地域・岐阜県飛騨地方産の木曽馬、愛媛県今治市野間産の野間馬、長崎県対馬産の対州馬、鹿児島県トカラ列島産のトカラ馬、沖縄県宮古島産の宮古馬、おなじく沖縄県与那国島産の与那国馬の8種類が、純正な在来馬として認定を受けています。

 

そんな在来馬の歴史は古く、文献が残っているものでは、469年の「日本書紀」にて、雄略天皇が詠んだ歌に馬の内容が登場するほか、日本書紀には幾度も馬に関する記述があるのです。

在来馬が表立って活躍する有名な時代としては、戦国時代が挙げられます。戦国最強といわれた武将・武田信玄率いる騎馬隊は、日本在来種の木曽馬を使用していました。

 

ただ、日本在来馬の本来の性格は、人懐っこく、温厚でおっとり。

現在でも乗馬として活躍する馬もいるように、本来であれば戦いの場に向くような性格ではないことから、徐々に衰退の道をたどることとなります。

 

決定打となったのは、明治の日清・日露戦争後の時代です。

日本の馬匹改良は、国策として軍馬増強に主眼が置かれたことから、馬格の大きい洋種馬と交配することにより大型化を図るという施策が行われました。

1901年には種牡馬および種牡馬候補以外の牡馬すべてを去勢するという「馬匹去勢法」が制定され、1906年には内閣馬政局が設置、1939年には「種馬統制法」が制定され、さらに政策が強化されていくこととなり、国内の多くの箇所で、純粋な在来馬が消滅してしまうことに…。

そんな中、離島や岬など、交通の便が不便な一部の地域では、そのような政策や外来の血を逃れてきた場所があり、細々と血が受け継がれ現在に至るのです。

 

日本の競馬の歴史と在来馬のかかわり

江戸時代末期の1860年、日本の鎖国が解かれた後、横浜に外国人居留地が設けられ、そこで行われた競馬が日本最古の洋式競馬とされており、1866年に日本初の常設洋式競馬場「根岸競馬場」が開場。

その後、明治時代に入り、根岸競馬場で開催されていた洋式競馬を模倣した競馬が各地で行われるようになります。

そこで行われていた競馬は、政界や財界、軍、皇室といった上流階級向けの催しでした。この競馬は、馬券の発売が認められなかったことにより、経済的な理由で、徐々に廃止されることとなりますが、このレースで走っていたのは、日本在来馬であるとされます。

在来馬が日本競馬の黎明期を支えていたのですね。

 

この時に行われていた競馬は、近代競馬とは異なるものですが、戦後近代競馬になってからも、日本在来馬の血が入った活躍馬が誕生していたのです。

1973年にクイーンステークスを勝ったヒダコガネは、遡れば母系に日本在来種の血が入っている非常に珍しいサラブレッドでした。

ちなみに、このクイーンステークスで下した2着リンネルンドは子孫にゴールドシチーなどシチー系の活躍馬を多く輩出し、3着ミヨトウコウはレース中にサイレンススズカが故障した「沈黙の日曜日」の天皇賞勝ち馬オフサイドトラップを輩出しています。

そんな相手を下したヒダコガネも活躍馬が出ておかしくはなかったはずですが、血統面からか交配相手に恵まれたとは言えず、残念ながら1990年前半にて競馬界から日本在来馬の血筋は途絶えてしまいますが、日本在来馬の血は、日本の競馬界にも確実に爪痕を残していたのです。

 

数が少なくなり、国の天然記念物に指定されている日本在来馬たち。

 

日本を代表する名馬の数々も、日本在来馬たちがいなければ誕生していなかったかもしれません。